例えば、人の形をかたどって、人の様に蠢き動く、夥しい数の虫の群。
皆がそうにしか見えなくなったら、人間がそうとしか認識出来なくなったなら、あなたならどうするだろう。
人より、少しだけ賢くて、少しだけ感受性が豊かで、少しだけ感覚が独特で、少しだけ潔癖なだけ。
ただそれだけ。それだけの重なりと組み合わせが、何時からか。何時の間にか、少女の世界を異界に変えた。
観察眼が、恵まれた記憶力が、早い思考が、相対した人間の本音を推察させる。目線が揺らいだ、口の端がヒクリと動いた、鼻の穴が一瞬膨らんだ、記憶を参照すればその場合の本音はX例中のY例が嘘を吐いている時で、その目的は欲望である場合がR例、それからこの人個人の過去例で考えると……
そうやって推算される本音と、実際の言動には乖離が生じる。
それは当たり前の事だ。少女とて、それ位の道理は分かっている。我が身を守る為、利を得る為、時に偽りを纏う事は自然の動植物だって行う挙動だとも承知している。
結局は胸三寸だ。どこまでが許容出来て、どこからが嫌悪感を催すかなんて、自分自身にだって分かりやしない。
それでも自分の事だ。それも、著しく日常生活に支障を来たす事柄だ。
日々自分の中にある『基準』を測ろうと様々に吟味し続け、ある程度の基準は推し量れる様にはなった。
恐らくは、複雑さが一定を超えると許容限界を超えるのだ。細緻過ぎる図形が時にグロテスクさを感じさせる様に。細分過ぎる模様が集合体恐怖症を引き起こす様に。個人を越えて、家族だとか、組織だとか、派閥だとか、仕組みそのものだとか、そう言う物に迄踏み込んだ取り繕い、機微、忖度、呼吸、定石、欺瞞、加飾、見栄、諸々……そう言ったものが、気持ち悪い。そう言った事をする人間の、心と言動のズレが、所謂『不気味の谷』の如く、強い生理的嫌悪感を感じさせる。
だが、それは一定以上数の人が集まり共同体を構成すれば必ず生じるもので。それを維持する為に必要な挙動でもあって。ある意味では、社会構造そのものの事ですらあって。
それはとどのつまり、社会に適合している人間の挙動そのものが気持ち悪くて仕方が無いと言う事。
要するに少女は、人間社会と言う物を受け入れる事が出来なかったのだ。
本質的かつ致命的な度合いに至ったアウトサイダー。
少女は社会の異物だった。
少女とて、年齢的には中学生だった。最初は、そう言う己の特殊性を特別さだと誤認して少しばかり浮かれる気持ちもあっただろう。
だが、そんな考えの浅いアノマリー信仰は、現実の前にアッサリと瓦解した。
だって体が震えるのだ。視線が定まらないのだ。近付く事すら心底嫌なのだ。吐き気が抑えられないのだ。学友が、教師が、家族が、全ての人間が気持ち悪くて仕方が無いのだ。いいや最初のうちはそうでは無い。だって相手を知らないから。だから例えば通行人はそうでは無かった。なのに相手を知れば知る程認識が歪んで行く。親しくなる程に気持ち悪くなって行く。極稀にそうでも無い者も居るけれど、それが逆に他の大多数を占める『そう』である人間の存在を証明し際立たせて行く。そして、そう言う者はつまり何らかのベクトルに社会不適合者なのだ。長く付き合える存在では無かった。大抵は表面上マトモな子供である少女の行動範囲から消える。逮捕であるとか、失踪であるとか、様々な理由で。
そうして段々と『どうせそうなのだ』と言う諦念と予感と全くの事実が、一足飛びに詳しく知らぬ初対面の人間すら気持ち悪いモノとして認識させて来る。段々と、着実に、通行人ですら『そう』なって行く。
生理的嫌悪感の塊。
悲鳴を上げるレベルで嫌悪している不快害虫の群が人間の真似をして居る様な。そう言うどうしようも無い程に相容れぬ存在が、話しかけて来る。触れて来る。関わって来る。視界いっぱいに沢山いる。どこに行こうとも居るのだ。家に帰ってすら居るのだ。だって家族程『良く知っている』人間は他に居ないので、それは少女にとってはつまり世界で一番気持ち悪い存在だ。安らげる場所など何処にもありやしない。
何度も吐いた。
何十、何百と吐いた。吐瀉物で窒息しかけた事ですら何十を超えている。
そうして錯乱する少女を心配して、気持ちの悪い異形達がにじり寄って来る、触れて来る、耳を舐る様な鳴き声を浴びせて来る。
けれど、それを、己の不幸とすら思う事は出来ない。
だって少女は知っている。それは自分がおかしいのだと知っている。
寧ろ、ただ人間として当たり前の事をして至極良識的な範囲に納まっている善良な人間達をも、自分は内心でとは言え気持ち悪いと罵倒しているのだ。何の罪も非も無い彼ら彼女らを一方的に嫌悪し悪し様に扱っているのだ。不幸なんてとんでもない、加害者は寧ろ自分の方だ。
それを、そう言う事なのだと、ちゃんと知ってしまっていた。
おかしいのは自分だ。でも気持ち悪い。
悪いのは自分だ。でも気持ちが悪い。
愛されないのは誰のせい。兎も角自分のせいでしかない。
そもそも愛されたって、それも気持ち悪いのだ。
どうしようもない。毎日が苦痛で気持ちが悪い。それが只管に積み上がって行く。
どうすればいい? どうすれば逃げれる?
そんなのは簡単だ。
死ねばいい。
嫌だ。
幸い、少女は早熟で理性的だった。
湧き出す死の願望が、とどのつまりは苦痛からの解放を望む逃避であると理解していた。
だからそんなものは気の迷いだと押し退ける事が出来た。
最初のうちは。
だってそれはそうだろう。それが苦痛から逃げ出したいと思っているだけなのだと分かった所で、その苦痛自体を取り除く手段が無いのだ。何とか自己改革を遂げようと足掻いて様々な事に挑戦しても、それによって『気持ち悪い存在(つまりは他者)』と関わる羽目になった結果の醜態や動揺が事を上手く運ばせない。それでも何とかとやり通した所で、気持ち悪さは結局変わらぬままなのだ。
そして『いざとなれば死んでしまえば楽になれる』と言う保証は、そう考える事自体が心の安らぎになる事も全くの事実だった。心の支えになって居る事も本当だった。ただ、そう言うマインドセットは『時間を稼げばそのうち解決する』場合に置いてのみ正しく機能する。時間を追う毎に悪化する少女の身の上には、寧ろ緩慢な毒としか機能しなかった。
文字通りの現実逃避としての空想。実行に移す訳じゃないからと自分に言い訳して、段々と死ぬ事を考える事が増えて来る。
段々と、具体的な手法を模索する事も増えて来る。だって現実味を帯びる程、逃避の妄想としての癒しは深くなるから。科学的な手法は何となく『複雑』に感じて嫌だった。少女はこの頃になって、自分はつまり『考え過ぎる』事でこうなっているのだと自己分析する様にもなって居た。それが分かった所で、それを己に禁ずる方法は思いつかなかったけれど。
勿論、それが不味い傾向だと気付いても居た。逃避だと、妄想だと、そう自分に幾ら言い聞かせても。それは、その考えは段々と存在感を強めて来る。そして着実に魅力を増して来る。もう嫌だ、苦しい、気持ち悪い、辛い、そう言った事を全て無くしてしまえる最後の手段。それがじわじわと己の心に近付いて来る。
何とか押し留めようと、そう言う感情や情動に関しても必死に調べた。心理学。精神分析学、哲学、そんな逃避手段は不毛だと否定してくれないかと。引いては己の嫌悪感を消し去る手段は無いものかと。……結果、希死念慮は人間の精神の根幹にあるものだと言う言説ばかりが出て来る。ふざけるな。やめろ。やめて。何でそんな事を言うの。こんなものは全部間違いだと。気のせいだと言って欲しかったのに。
日毎ジワジワと近寄って来る足音。
近隣の山々を歩き回る自分を、その徘徊を、その時にはもうすっかり持て余していた教師も両親も諫めようとはしなかった。腫物扱いと言う言葉があるが、もう既にその腫物は半ば切除済みな様にすら感じれた。そしてそれは教師や両親が悪い訳じゃない。散々に迷惑をかけて擦り切れさせた末の結果だと、つまりは自分が悪いのだと分かっている。
自分は、自分のせいで苦しんで。自分一人で勝手に死にかけている。ただただ迷惑をかけた周りの全てを、なのに気持ち悪いと拒否しながら。見つからなくて良いのに。本当に毒性の強い自然物……毒茸を見つけて。採取も上手く行ってしまって。加工すら恙なく上手く行ってしまって。後は実行するだけ……いや、駄目だ。駄目なのに。けれど。嫌なのに。だって他にどうしようもな──
『死ぬくらいなら他にも試して見れば良いと思いますけれど』
そう言われて、戸惑った。
『自分が悪い自分が悪いって、心構えは立派ですけれど、それで自分が死ぬんじゃ本末転倒でしょう?』
つい耳を傾けてしまった。相手が久方ぶりに『マトモな人間の姿に見える』事もそれを手伝った。
『そもそもどうして悪いといけないのですか? どんなに悪くても、死ぬよりはマシと思いませんか?』
それがどう言う事なのか。疲弊した少女の頭は思い至る事が出来なかった。
『私に聞いては駄目ですよ。貴女の事です、貴女が考えて、貴女が決めませんと』
或いは思い至った上で思い至らなかった事にしてしまった。
『でも何かあるでしょう? こう出来たら楽なのにとか、こう出来たら良いなと思った事。したいと思った事』
だって、本音と言葉に一切の乖離が無い様に見えるその言葉は。
『だったら、先ずそれを試して見れば良いと思いますよ?』
少女にとって。
『本当は、死にたく何かないんでしょう?』
多分、一番欲しい言葉だったから。
当局により捕縛されるまでの間、犠牲者が数十人に至るまで『駆除』を進める事が出来たのは、単に運が良かった事もあるだろう。ただ、少女の資質が思いの外そう言った謀に向いていた面もあるのかも知れない。
未成年だった事もあり、捜査は少女が心神喪失状態にあったと言う方向に持って行こうとしたが、計画性の余りの高さと、それから取り調べに対する理路整然とした言動が、その目論見を完全に封じる結果となった。
まあ、その取り調べも被疑者である少女が突然の失踪を遂げた事で無意味となったのだが。
茸とその調合薬に拠る幻覚作用と精神錯乱は、少女を『考え過ぎ』ない状態にする。
そして監獄都市ローゼリンで関わる大半の存在は囚人で、着の身着のままで召喚されたが故に守るものや維持するべき社会背景を喪って居る事が非常に多い。それで無くても冤罪ではない犯罪者の大半はアウトサイダーだ。つまり召喚された時点で、或いはその前から、大半が人間社会から弾き出されている。だから、そもそも少女が正気の状態であったとしても、『マトモな人間の姿に見える』者が大半となる。
少女は楽しそうに笑っている。今は。
『おいで。おいでよ』
『あなたも莫迦で、嫉妬深い、猥雑で、図々しくて、己惚れきって、残酷で、虫の善い生き物なんでしょう?』
『あたしもそう、あたしもそうだよ。だから大丈夫』
『抱き締めたげるから、おいでってば。ねえ』
あたしを一人にしないで。